生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2024-5/19 よくわからない

昨日の夜、初めて人と分かり合えた

弟と、全てを語り合った

自分主体で、自分も参加していて。すごく嬉しかった。とてつもなく気分が高揚していた。

けれど、もうわからない。私は何もわからない。何も言いたくないのに、言わなきゃ苦しいから、言葉を吐き出す。私は創作ができない。この現状がその事実だ。

山月記みたいに、なれたら、なんて、思うけど、それもどうせ嘘で、私は本気でそう思っているわけではないし。私は、一体何なんだと思う。

草にのみ込まれる時、抵抗しないから、理由があるなら絶望しながら諦めるから、その時は痛くしないで欲しい。とか、私はわかってない。自分がどれだけ信じているのかさえ。どれだけ信じればいいのか。信じたい、という気持ちもわからない。いや、信じたい、は違うな。

私はきっと、私には、この世界に繋ぎ止められる理由が必要だ。私は、何かによって、この世界に繋ぎ止められなければ、どこかへ、遠くへ、風船みたいに飛んでいってしまうのかもしれない。私はこの世界が好きだ、それだけは多分本当だ。強くは言えないのだけれど。

私は無駄なことばかりしている。無駄に考えてばかりいる。本当は全部言いたい、全部書きたい。でも、そんなことに、意味なんてないし、疲れてもいて、私は直接的な言葉を避ける。

助けて欲しいわけじゃない、いや、そうなのか。助けて欲しいなんて、直接的な言葉は、どうも好きじゃない。だから、風船の紐を持っていて欲しいだけだ。私は答えが出せていない。私はしょうもない。強く生きている人が羨ましい。直接的な言葉を使い、無駄なことをせず、真っ直ぐ歩いている人が羨ましい。と思いつつ、私はそういう人を馬鹿にしているところもある。

私は、自分からこの世界と繋がなきゃいけない。そうするべきだ。普通の人はそうしている、当たり前のように。私は曖昧な人間だ、あやふやでいることを嫌うが、曖昧でいることを好む。私は幸せな世界に生まれたかったのだろうか?

その問いがわからない。ずっと。

私はこの世界が好きなはずだ。私は私であるはずだ、私には意思があるはずだ。私は自由なはずだ。自身の存在さえ、信じられなくて、何を信じられる?

私は妄想をしすぎた。無駄に考えすぎている。難しい言葉をもう聞きたくない。宇宙のこと、もう知らなくていい、と打とうとして、手が止まった。結局、このように手が止まったことを書いたのだが。

考えすぎたら生きていけないのだと思う。知らない方がいいことはたくさんある。私は生きてればいいのだ。私には何も出来ないのだから、私は何者にもなれないのだから、ただの、蟻みたいな人間のひとつでしかないのだから。

創作をしている人が好きだ。好きだ。すごく眩しい。私には、できない。できないと、言いたくないけれど、でも、事実、できていない。私は、人間として生きているのが下手だ。だから、そういうところが、私は所詮、ただの人間なのだ。それも悔しいし、どうせ心の底では認めていない。

音楽を聞こう。こういう時、私は音楽を聴く。それで、安心する。世界と繋がれている気がして。

自然と融合するのは、老後でいい。(言い換えるのも、)怖い。それについては、私は考えていなさすぎた。私は風になんかならない。私は実在している、していたい。だけど、風みたいに風船みたいに飛んでいきそうだから、私は今、音楽で、とりあえず繋ぎ止める。いつか、この世界に佇むことを、望むようになりたい。

 

・る、ね。/機通しょ

https://youtu.be/l2Krms84d1I?si=2Aj4BQlTOSvMgWXs

最近になって、これがかなり好きだ。とても曖昧で、言葉にしないでくれるから、それでも歌ってくれるから好きだ。このボカロの声好き。

 

・放課後シャングリラ/卯月コウ

https://youtu.be/iwHCSBM4I1I?si=HlqZQjNICWtadNkr

これを聞いて安心した。そうだ、卯月コウが生きているんだ。卯月コウがあんなに楽しんで生きているんだ、なら私も生きていけると少し思った。安心した。そうだよ!!卯月コウが生きてるんだ!卯月コウが、俺は卯月コウになった と、言ってくれたんだ!!!卯月コウはブルアカをやっている!卯月コウは、ホシノとヒナが好きなんだ!!!!メイドモモミドも引くだろう!!!!!

元気が出た。とても。私も、メイドミドリを引こうとしてワクワクしたりして、いいはずだ。ヒナのメモロビで一喜一憂していいんだ。人生を楽しむということを、思い出した。私は人間でいい、人間なのだから。