生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2024-4/27 鬱

正しくないものに、間違っててもいいよって、そういう肯定で生きている
私を助けてくれるのは、私と音楽、創作物と推しだけだ
笹川真生の音楽を聴く
真生さんの歌は一緒に消えてくれるし、ひとつになってくれる
棘も歯も無くて、骨も溶けるし、一緒に生きようねと言ってくれるわけでも、一緒に死のうと言ってくれるわけでもないのだけれど、ただ歌ってくれるから、安心する。
私は何も悪いことしてないのに、何かしなきゃいけないという強迫観念がずっとあって、何かするのも嫌になって、結局何もできない。怒られるとばかり思う。
私には才能がない、私に才能があったなら、そんなことは有り得ない。
何をするのも嫌だ。誰も価値があると言ってくれた試しがない。いや、信じられたことがない。
何かになりたいとばかり言っている。キタニになりたいだの、あの小説家になりたいだの、ウヅコウになりたいだの、風になりたいとか、、、なる ためには、それになったと自分が認めるしかない。世間が認める場合もあるか。私には、そんなもの、一生関係ないけど。
還りたい。海に還りたい。海から来たと、思っているわけでもない。私は凡人なのだ、つくづくそれを思わされて嫌になる。だけど今更、凡人に収まって、"みんな"を演じて生きることもできないし。そうなるぐらいなら、殺してやるとも思うし。もう死にたくない。最近はすぐ、死ねと思う。死ねって1番言いやすいし。(心の中で)
本当の別れの死を経験したこともない。私は、死を知らずに擦り減らす側の人間だ。私だって、もっとちゃんと、死ねとか言わずに、綺麗な言葉で生きていたいし、そう生きてきたはずだった。だけど、殺さなきゃ、殺されるだけだ。本当の死なんて知らない。本当の別れとか、悲しみとか、苦しさとか、他人の痛みとか、ちゃんと向き合う余裕なんてない。他人に殺されないように、自分を殺している。他人に殺されるわけもないのに。
何も考えたくない。なんで私は、考えたいと思ってしまうのだろう。おかしい、こんな、無意味な人間でいいはずがない。現実的に生きたい。金とか友情とか、分かりやすい結婚家族子供の幸福とかでいい。そういうもので、生きれる人間であれば、よかったのに。
誰にもわからないものばかり持っている。探しても探しても、どこにもない。私の救いは。
いつか救ってあげるねって、これからも一人でめんどくさい思考回路のまま、生きてればいいのかな。言語化できない。言語化できないことが多すぎて嫌になる。後から自分が読み返したって、何言ってるかわかんないだろう。感覚が共有できない。
羨ましい。だけど、いや、だから、絵を描くのかもしれない。それも、共有するのは難しいのだけれど、文字よりはわかりやすいだろう。
私の好きな絵を描いている人に、会いたい。1人ずつ。

 

結局、どうすればいいんだ。→死ぬまで考え続けて、死ぬ気がする!
なんか、最早そうだったら良いかも。自分の生き方のスタイルは一貫したいよね。
夢の絵、描きたいな。誰か一緒に踊ってくれないかな、いつか。頭に浮かんだことをそのまま書いてるから、ぐちゃぐちゃだけど、ぐちゃぐちゃの方が綺麗なことだって、心地良いことだって、たくさんある。私にとって文章は私だけのために書くものだ。それが誰に宛てたものだとしても。
私は、痛くない創作がしたい。イタいじゃなくて、精神的に痛くないやつ。苦しいのはあるけど、刺されたり、殴られたり、そういう暴力的な痛みはないもの。(ここで言う 苦しい は、首締められて苦しいとかは省く。)
何言ったって、何にもならないか。誰かにわかってほしいわけでもないんだけど、なんかそれいいねって言って欲しい。って、私だったら良かった。


歌聞こう。創作をしている人間は、素晴らしい。考えている人も、素晴らしい。生きていることなんて、素晴らしくも、素晴らしくなくも無いです。そういう、人間的な、主観的な価値観を持ちたくない。私はかつて、神にすらなりたかった。なんて書いてみると、厨二病みたいでおもしろい。神様になりたかったのは本当にそう。ただ、ちょっと良いことが起きるようにするだけの神様。

 

言葉を書いているのに、変なことを言うけど、信じるとか、愛とか、生きるとか、言葉にしちゃいけないと思う。いや、いけない訳ではない。言葉にできない。言葉(主観的価値観)という型に押し込めてはいけない。
私は、フォスフォフィライトになりたかったのかも。あの子みたいに傷つきたくはないけど、わかるっていうか。結局、ただの石で良かった。人に必要とされて救われた!とか、そういう話じゃない。
私も、『だれかのきぶんをあかるくしてたらいいな』って、生きていきたい。体の重さ、心の重さ?を、軽くしたい。だから風になりたいのかもね。自由って、軽くなることだから。嘘の自由じゃなくて、本当の自由。
明日も良い日になったらいいな、ぐらい、願っても良いよね、、、。良い!

2024-4/26 電車 車内にて

校外学習が終わって、解散になって、すぐに駅へと歩き出した。今日はまた、すごく嫌な日になるだろうと思っていた。校外学習が終わって帰ってきてから、憂鬱な気持ちでバイトへ行って、バイトが終わった後の夜、思い出して、もう学校行きたくないって泣くのかもしれないと思っていた。
だけど、今日は楽しかった。意外とみんな優しくて、やっぱり人は見かけで判断するべきではないなと思った。
悲しい。一人で電車に乗っている今、悲しい、寂しいと思った。
火曜日からまた私は、冷たい私をやらなきゃいけないんだ。今日は久々に、少し、人と話したり、笑ったり、仲間意識というものを持ったりした。みんながすごく優しかった。
私が私じゃなかったら、学校の人じゃなかったら、友達になれてたのかな、なんて少し思った。でもそんなの違うこと、わかってる。
笹川真生の三文芝居が頭の中に流れている。そんなにネガティブになることもないか。今日だけ良いことが起こったとでも思えばいいんだ。私は最初から1人だし、それを選んだんじゃないか。
でも今日、楽しかったのは本当だった。すごく楽しかったわけでもないけど、私の最近の生活は、一人で、無のことがほとんどだったから。
私は小さい、弱い人間だと思った。もう何も言わない方がいいだろう。眠い。何を言ったって醜いだけだ。
たまに外に出るのはやはり良い。風は好きだ、絵は好きだ、一人は寂しい、そんな当たり前のことを今日感じた。
私は忘れるだろう。絶対にそうなのだ。それでいいのかもしれないと思う。

やっぱり人か、と思った。つまらない。私はもっと、人じゃなくなりたかった。自分は、普通の人とは少し違う(ズレている)と思っていた。しかし、私は本当に"少し"にしか過ぎなかった。知っていたけれど、それがわかる度、気付かされる度、私はどうしようもない気持ちになる。夢の中にいるみたいな、自分以外、この世界に誰もいないような感覚になる。私は社会が怖い。人間社会が怖い。私なんて、蟻の行列の1匹でしかないと言われているようだ。眠い。
夢を見たい。
現実は、あまりにもグロすぎる。それこそ悪い夢だ。
私は本当の自由になりたいのに、私はただの人間で、この肉体で生きている現実世界の中で、人との関わりを感じ、喜びを感じている。
私はひねくれている。間違っている。だから、その正しくなさで安心している。
眠い。
夢がみたい。

2024-4/25 昨日、色んな曲を聞いていた

昨日、学校から家に帰って来て、どうしようもないほど気持ちが沈んでいたので、音楽を聞いた。

笹川真生さんの、うろんなひと を聞いた。

https://youtu.be/dNMPBIWp6H4?si=uF_giNTXKYJ6eVVg

沈んだ重さを感じて、寂しさと虚無を感じたが、同時に少し安心もした。笹川真生さんの歌って、そういうものだと思う。人にとって、救いとなりうるもの。

「不思議で不思議で

不思議で不思議でたまらなかった

つまらないつまらない

つまらないつまらない

ことばかりでさ」

ここがすごく好き。

 

その後は、食中植物を聞いたり、一人笹川真生メドレーをした。

・食虫植物

https://youtu.be/XLP-maQNahg?si=4vz_fCFTMYp49dNk

やっぱり良い。真生さんの声と歌詞はもちろん、蟹さんの映像が良い!!!!!これ聞いて蟹さんのことを知ったし。

理芽さんバージョンは、ポップでありリアルな病んでる女の子で、共感を得やすい感じもあるんだけど、真生さんバージョンは、人間の孤独な心をうたっている感じがあって、良い。

 

・フロム天国

https://youtu.be/71wuolUoIm4?si=bT6wKTCxvvnbzHpV

理芽さん(真生さん作詞)の新曲、フロム天国も聞いた。理芽さんの声はいつも通り良いし、EMAさんも似てる声してる。

やっぱりワードセンスが良すぎる。笹川真生にしか書けない言葉。それで言うと、『日本の九月の気層です』は、歌詞が全部好き。

 

その後は、オススメに出てきた知らない曲を、片っ端から聞いた。良いなと思う曲がいくつか見つかったのだが、その中でもこれは良い!!!!!と思ったやつが2つあった。

 

・片方だけが燃えている

https://youtu.be/YyXbQGUfsnE?si=lIe-U6jSbRAP2Puo

これめちゃくちゃ好き。もう昨日から何回も聞いている。前奏の音から、全部の音が好きだ聞いていて心地が良い。夢のように神秘的でありながら、静かな朝のようで、少しづつ消えてしまいそうな。初音ミク機械的な声がすごく良い。歌詞も良い。

『片方だけが、

燃えている

きづいていた?』

ここの歌詞で、『燃えている きづいていた?』が低音になっているのがすごい良い。真正面から、目を真っ直ぐ見つめられて問われているような感じがある。めちゃくちゃ好きな曲。

 

・せかいはあなたのものです

https://youtu.be/f6YdBfROxXQ?si=c-M18TKWE4DTTOvl

これは芸術。好きとかそういう話ではない。初めて聞いた時、音に驚いたし、わくわくドキドキも感じた。最初は落ち着いた感じだったけど、どんどん世界の始まりに近づいていくような感じがあった。生まれる、みたいな。

コメント欄も見たんだけど、コメントにm*o*e さん本人が1つずつ返信していて、その返信の言葉から、この人すごいなと思った。使う言葉がすごく良い。素晴らしい感性を持っている。今後もこの人の音楽活動を見守っていきたいと思った。

 

そして、今日の見つけた良い曲!

 

・る、ね。

https://youtu.be/l2Krms84d1I?si=kGa9ZYDmjM41NPTV

サムネに惹かれて聞いてみたのだが、良い。この空気感、世界観がとても良い。真夜中の街の子守唄のようでもあり、誰もいない朝焼けの田畑の景色のようでもある。

ナースロボの声が良いね。このナースロボっていうボカロ、あんまり聞いたことなかったんだけど、好きな声だ。この人の調声が上手いだけかもしれないけれど。

多分、歌詞であった『終わる、ね。』の『る、ね。』を曲名にするというセンス。

2024-4/25 バス車内にて(登校) 夢、死生観

今日はいつぶりだろうか、アラームが鳴る前に目が覚めた。私は基本的に、毎日夢を見ている。そのため、夢の続きが気になって、いつも二度寝してしまう。私の場合、完全に覚醒しなければ、少し目が冷めてしまっても、二度寝すれば、もう一度夢の続きを見ることができる。半分頭が覚めていて、半分寝ながら、自分で続きを作っていることもあるが。
今日は、夢の内容がそんなに面白くなかったんだと思う。あと、時間がどうとか、数字がどうとか、夢の中で誰かにそんな話をされた気もする。もう起きなきゃ、と無意識で思ったのかもしれない。
ベッドから降りて、下へ行くと、お母さんがえっ!?早いね、すごい! とびっくりしていた。
私は朝から機嫌が良かった。首と肩もあまり痛くなかった。
しかし、結局いつもと同じ時間のバスに乗っている。どうしてそうなったのかは些細なことなので割愛されてもらうが、私は今なんだか不思議な気持ちでいる。
これを書いているうちに、さっきまでの 今日も良くなるよ〜! という楽観的、希望的観測な思考ではなくなってきた。

頭の中で、昨日見つけた、『片方だけが燃えている』という曲が流れている。
なんだか、世界が夢の続きみたいに思える。全部夢で、このバスはどこへ辿り着くこともなく、気づけば知らない場所を走っていて、森の中を、街の上空を、海の上を、地球から飛び出して、星になって走っていくんじゃないか。そんなことを思う。
私たちは自由なのに自由ではない。今だけはそのことを、あまり嫌悪していなかった。生きている感覚があまりしない。これが夢なら、この先も夢なら、ある意味幸せなのになぁと思う。
多分、世の中にはそんな生き方をしている人もいるのだろう。それでも私は、ちゃんと苦しんで、悩んで、悲しんで、笑い、愛しながら生きていきたい。私は今死んでもまぁいいかなといつも思っているが、実際に死の危機に瀕した時、私はなんとか生き延びようとすることを知っている。私は絶対に、死に恐怖し、抵抗するだろう。こういう死生観を、私は勝手に『城の崎にて思想』と呼んでいる。"城の崎にて"は志賀直哉の、あの"城の崎にて"だ。私はあの小説が好きだ。授業中にこっそり読んで、凄く感動した。『生と死は両極ではない。』私がずっと思っていたことを、言葉にしてくれた。文章にしてくれた。こんな人が、かつて生きていたのかと感動した。それで、もう志賀直哉は生きていないという事実に、とても悲しくなった。寂しくなった。
もうすぐ学校に着くから文章は終わりだ。
気持ちはもう夜みたいだけど。

2024-4/23 バス車内にて 人間が嫌い

23日のやつ。

 

私は、一生人間を嫌いでいたいと思った。人間の気持ち悪さを、世界の気持ち悪さを、異常性を、いつまでも感じていたいと思った。人間のことを気持ち悪いと思わなくなったら、それはもう私じゃないし、私はそういう人間にはなりたくないと強く思った。
私は人間が大嫌いだ。それ以外の動物は、喋らないし知能が人間未満なので、嫌いではない。好きでもないが。猫と犬はまぁまぁ好きだ。虫は知らぬ間に家の中にいたり、近づいてくるので嫌いだ。
多くの人は私のことを人間嫌いで嫌だと思うだろう。しかし私は、人間を好きな人の方が怖い。人間は、ある程度行動や思考を予測することは可能だが、完全に予測することは不可能である。もしかしたら、突然刺されるかもしれないし、笑顔の裏で本当はどう思っているのかなんてわからない。人間が好きな人間は、理由もないのに、大抵、初対面でも予測不可能な人間に対して警戒心を持たない。そして、そういう人ほど、私のような人間を無意識に傷つけてくるのだ。
私は人間が嫌いだ。あんな学校の中で笑ってる人間が嫌いだ。みんな、男がどうだ、女がどうだ、彼氏、彼女、本能を素敵(都合の良い)な言葉で隠して、結局自分を愛しているだけだ。

2024-4/22 雑談 卯月コウについてなど

ウヅコウの昨日の配信のアーカイブを見ていた。やっぱり私は卯月コウが好きだなと思う。言ってること全部納得できるし、共感できるし、ウヅコウが上手く説明出来ていない時も、わかるわかる!!となんとなく感覚を理解出来る。
しかし、私と違って、言語化能力がとても高いし、今まで蓄積させてきた彼だけの哲学がある。私は卯月コウにハマってから、"卯月コウ"みたいになりたい!と思っていた時があった。これは本当に最近のことだ。正直、今もたまにそう思うけど。
私はウヅコウのことを、"常にマイノリティーである自分"を愛している人間、だと思っている。自己愛が強いけれど、客観的に見て、"代替のきかない個性"であることに価値を感じていて、そういう自分でありたいと思っているのかな、と私は考えている。
私もそういうところがあるけれど、正直私はそこまで"マイノリティーであること"に拘っていない。私からすると、卯月コウは、"マイノリティーである自分"を突き通し、素直に愛し、だからこそ信じていて、卯月コウは"卯月コウ"でしかない存在だと思う。つまり、卯月コウは代わりなんていない存在だと思う。
私は、私のことを上手く愛せていないし、ちゃんと信じていない。だからこそ、卯月コウは中学生なのだ。
私は中学生ではいられなかった。私は、高校生になった。私は中学生が嫌いだ、高校生も嫌いだ。卯月コウは誰も予想しなかった方向に、しかし真っ直ぐ伸びている草木のようだ。けれど私は、下を向いたまま背丈だけは伸びている今にも枯れそうな草だ。
私は卯月コウのように、誰も予想しなかった方向に真っ直ぐ伸びていけない。私は結局、予測可能な、ありふれた人間なのだろうと思う。それでも自分のことを愛してしまうのが人間で、私は人より自己肯定感が低いから、自分の愛し方が少しひねくれているだけだ。みんな違う自己愛を持っている。
ウヅコウが格付けの後の配信で、逆張りによって文化(例えとして音楽)が発展しているところがあるんじゃないかと言っていたが、私も確かにそうだと思う。
この話でパッと思い浮かんだのが、キタニの『悪魔の踊り方』で、あれはまさに、お前らバカかよ!!!(怒) という、世間への逆張り的訴えかけだと思う。私は逆張りはある種の自己愛だと思う。だから、自己愛のぶつかり合い、ぶつけ合い、混ざり合いで文化が発展しているんだと思うと、なんだか面白い。でも、恋愛も友愛も、人と人の互いの自己愛があって成立するものなのだし、自己愛によって文化が発展している、というのも案外正しいのかもしれない。
そんなことより、以前から母が弟に似ていると言っているシナぷしゅに、長谷川白紙さんが声で出演しているとのツイートを見て、YouTubeで見たんですけど、良い、、、。白紙さんの声、良い、、、。というか、声良い、、。声ってそもそも、良いよね。やっぱり人間の自己愛を大切にしていこう!人間嫌いだけど。まぁ、私が人間のこと嫌いなのは、人間と向き合いすぎてしまうし、考えすぎてしまうから、嫌い!にしていた方が楽なので。

 

【ウヅコウ 好きな切り抜き】

https://youtu.be/rT8On2anV-M?si=SmHHMl7NMP7aWaFl

これほんと好き。もう完成されすぎている。言ってることがわかりつつ、なんだコイツ感もあり、とても良い。何回も見てる。

 

https://youtu.be/Tu16dT632wo?si=GaJpTwBHtxFk5ZUb

ウヅコウのお人形遊びめっちゃ好き。特にこの回は自分で自分の解釈に衝撃を受けてるのが面白い。

2024-4/22 バス車内にて

日々が、無名作家の200ページ程しかないつまらない小説のように思えた。早く家に帰りたい。しかし、家に帰ってまた明日が来て、明日が来て、ずっとそれの繰り返しでしかない。意味も価値もないのではないか。いや、ないんだろう。生きていることに、意味も価値もない。ただ生きているから生きていこうとするだけだ。
早く家に帰りたい。早く家に帰りたい。私でいられる場所に帰りたい。でも、もう帰りたくない。何かあった訳ではないが。説明できない。風を感じたい。結局のところ、機械的でしかない自然を、機械的な人間で感じたい。その"機械的"すら、自然なのかもしれない。自然と機械的は私たちには理解し得ないだけで、イコールで結べるのかもしれない。しかし、私はそんなこと(真実)はどうだっていいのだ。何もわからないまま、未熟な、曲がりくねった自我で、馬鹿のまま、自然の一部になりたい。今はそういう気分だ。もしかするとそれは、死 かもしれない。私が死んだら骨をどうしようかと、たまに考える。前は、本当によく、そういうことを考えていた。葬式の写真は何がいいかなとか、棺の中に何を入れて欲しいかとか、私が死んだら誰が泣いてくれるのか、妄想していた。
私の遺骨をどうして欲しいのかについては、3つの考えがある。現実的に出来るかどうかは別として、桜の樹の下に埋める、海に散骨、食べてもらう、

家に帰ってきた。私は学校が嫌いだ、人間が大嫌いだ。もういい。こんな暗いことを、嫌なことばかり考えるのはやめよう。
今日はデッサンの時、通りがかりに先生から「まぁまぁだね」と言われた。まぁまぁ良いのか、まぁまぁ良くないのかわからなかったが、前はそれすら言われなかったので、前よりはよくなったのかもしれない、と思った。実際、前は立方体1個に3時間ほどかけてしまったが、今日は2時間で立方体2個を描くことが出来た。パースも大体合っている、、と思う、、、。先生にパースについては言われなかったので、目立ったパースの狂いはなかったのだろう、、と思う、、、。
前の席の人が立方体を小さく描いていて、上手くてムカついた。小さく描くのなんかズルだ。先生にはぜひ点数を下げて欲しいが、先生はそいつに対して「良いじゃん」と言っていたので悔しい。(小さすぎるとは言っていた。) 確かに良い。いや、確かにとかじゃなくて、上手い。だからムカついた。美術部にも入っていないし、話を盗み聞きしたところ、デッサンをあんまりやってきたわけでもないそうなのでムカつく。普通に才能だ。しかも休み時間、私の席に座ってたからデッサンの続き出来なかったし。しかも椅子を動かしやがったし。だから嫌いだ!良い人そうだけど、良い人だとかどうでもいい。
何より、休み時間やりたかったのに私が目の前に居たのに全く気づかず、私の席に座って友達と話して、しかも、くだらない女の話をしていたのでムカついた。あと、ちょっと調子に乗っていたのでムカついた。だから絶対上手くなってぶっ殺そうと思った。