生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2024-3/10 にわかが おりコウ/コウ について語る

前に書いた、卯月コウの話についてのやつで、「幸せになるために何者かになりたいと思っているのに、何者かにならなければいけないと思い込むことによって不幸になっている」と、コウが言っていたと書いたが、それは私の解釈というか、コウが言っていた言葉を膨らませて、勝手に私が言ったことだ。

コウが言っていたのは、「何者かになるということが、自分の価値観においての幸福であるからのくせに、不幸になることに依存していく」ということ。つまり、根本的には幸せになるために、自分はこういう人なんだ、自分はこれでしかないと思い込んでいたが、その型に当てはめることに依存していって不幸になっている、ということなんだと思う。

ここ最近、コウの配信の切り抜きばかり見ている。本配信も見たいのだが、時間がなくてどうしても見れない。いや、私は、卯月コウのことをそれほど好きではないんだろう。

おりコウで超てんちゃんちゃんのゲーム(名前忘れた)をやっている切り抜きを見た。

 

<本配信>

https://www.youtube.com/live/gPkvkFiG8vE?si=pFBxVG28IAEJvIHM

下記内容の話は 3:19:45 辺りから

 

<切り抜き動画>

https://youtu.be/nXpHMx29tsI?si=zHrEs9O8R7UVhsox

 

『私は社会不適合者だ、私は社会には適応できない、そうやって適応できないことに依存していってしまう。』『知識があるから余計苦しむってことは絶対あると思う。』

『俺は自分がただの天然だと思ってた時の方が楽だったけどね。』

最初見た時はよく分かっていなかったところもあったと思う。でも、3回見てコウの言っていることも、りりむちゃんの言っていることもわかった。

この話は、コウが自分の話とゲーム内のあめちゃん含め価値観についてを織り交ぜて語っているから、分かりづらいのかと思った。

どういうことなんだろうって見たり調べたりしたらわかったけど、明言は避けて、コウ自身の話としては、『自分は天然だと思ってて、知らない方が楽だった。』

それに対してりりむちゃんは、『あたしは何かわからず、もやもやしてる方が嫌』『天然っていうのも型に当てはめてる』

『自分が救われるならどんな形でもいいんじゃないかな?』

『だからコウくんは天然でいいんだよ。』

3回目にさっき聞いてきて、泣きそうになった。おりコウって本当に凄いよ。コウとりりむちゃんって似てるんだけど、価値観というか、姿勢みたいなのが少し違くて、コウは自分の在り方、自分の理想みたいなものに多分、すごく拘るというか、すごく真剣に考えていて、だからこそ、何が正しいのかなって思って、りりむちゃんは、自分がそれでいいんだったらいいんじゃない?って、ある意味単純に素直に生きてるのかなぁって思った。こういうところでおりコウはお互いに補い合えているから、合ってるのかもしれない。

あと、コウ自身の話ではなく、ゲーム内のあめちゃんのことを含めもっと広い価値観として言っていたのが、『型に当てはめることに依存して結局不幸になってしまう、例えばメンヘラという概念がなければメンヘラという型に当てはめることもなかったから、本来もっと強い人間になれたんじゃないか。』ということだ。

そこでりりむちゃんは、『そうだからこそ(弱いからこそ)、そう考える(もっと強くあれたんじゃないかと考える)のもいいと思うんだよね。』『そういう弱さ好きだよ。』『人間味があってよくない?』

この返しが良すぎて、ハッとした。

哲学をしっかり勉強していない私みたいなガキが語れるようなことではないのかもしれないが、哲学って結局、思想の問題だから好きか嫌いかなんだよな。正しい、正しくない、こっちの方が合理的、そういうことでは解決できない。

『好きか嫌いかの話は、正しい正しくないとかじゃなくて、いいのかもな』

2人の会話凄くない?レベルが高すぎる。それに、りりむちゃんって凄いなと思った。私はかなりコウ寄りの考え方の人間なので、知識がない方が楽だったっていうのにも共感したし、逆にりりむちゃんが言っていた、『あたしはもやもやしてるままの方が嫌』(知識がなくて自分が何なのか分からない方が辛い)と話していたのは正直ピンと来ていなかった。だけど、3回見てわかりました。わかった気になっているだけかもしれないけど。

確かに、自分を型に当てはめることで安心していることもあるのだと思う。そうだな、と思った。私は、ネット上で自分のことを、陰キャぼっちと書くことがある。自分を"陰キャぼっち"という在り来りな"キャラ"に当てはめて、自分は"陰キャぼっち"だから、こういうことをしてもいいんだ、世の中にこんなやつらは山ほどいるんだ、と思って安心しているのかもしれない。今これを書いてて、あぁ、そうかと思った。陽キャ陰キャっていう言葉ができた理由の一つに、これも関係しているのではないだろうか。(と勝手に思っただけ。)

これで面白いなと思ったのだが、よく聞いてみると、コウとりりむちゃんはそれぞれ"型"についての考えが少しすれ違っている。コウは、自分の元々あるふんわりとした特性に明確な名前をつけることが"型"に当てはめることだと言っているが、りりむちゃんは、自分の特性をふんわりと言葉として認識していることも、明確な言葉にすることもどちらも"型"だと言っている。

ここにも、コウとりりむちゃんの価値観の違いが現れている。良い意味で。

コウは、明確な言葉を避け、曖昧な型に当てはめることに疑念を持つ、これでいいのかと考える、だけど、そうやって自分だけの型に当てはめることに安心する。りりむちゃんは、明確な言葉を知ることで、これって自分だけじゃなかったんだと安心する。

お互い、違う強さも弱さも持っている。

コウってちょっと完璧主義的なところというか、理想に対しての憧れが強いよね。中学生的な輝きを持ち続けたいっていうのもそうだし。

深い。おりコウあまりにも深すぎる。

 

私はエモっていう言葉を全然使ったことなくて、どちらかと言うとなんか嫌いだったんだけど、コウの言う"エモ"は好きだなと思った。コウの"エモ"って、感傷であり、輝き、かつて輝いていたもの、なんだよね。直訳型エモ、意訳型エモっていう言葉もあったけど、本当に言語化能力が高いなって感動した。あの、一番エモい季節は何?っていう話題のOTNKの配信で言ってた、『桜はあいつら咲いてる時も認められてるからなぁ』っていうのが、すごい良いなって思った。夏が喪失で一番エモいっていうのはめっっっっっっちゃわかるんだけど、『春は始まりで出会いだからエモくないんだよな』っていうのは、私とは違う"エモ"についての考えだったので、新鮮だった。ウヅコウの思う"エモ"良いなと思った。

おりコウで恋愛漫画とかそういう作品について話していたやつで、りりむちゃんが、今までなかった出会いをしたってだけで面白い!って言ってて、コウがそれ(その考え)いいね って笑ってたけど、こういうところが噛み合ってるからおりコウは最高なんだろうな。(さっきもやったくだり)

多分、ウヅコウが好きな"エモ"って夏真っ盛りの青い空だと思うんだけど、私が好きなのは厳密には、夏の終わりの、8月31日の夕暮れなんだよね。春休みが終わる前日もそうかもしれない。(実際にそれが好きという訳ではなく、イメージとして)

12月31日もそうだな、年が明けて、うちは毎回外出て近くの神社に行くんですけど、その時の冷たい冬の空気と、星空だなぁ。

終わりって始まりで、始まりって何かの終わり。毎日、今日が終わって、明日が始まっている。その度に、"今日この日"という時間を体験することはもう一生できなくなり、今日は過去に変わる。そうして、明日が来る。明日がまた過去になって、今日が来る。

そういうことにエモを感じているのかもしれない。だから、生きていることかな。時間の流れ、季節の流れ、毎秒何かが死んで何かが生まれている、それに対する感傷と煌めきと喜びと、寂しさ。

結局、明日は来るんですよ。夏が終わっても、何か特別な日が終わっても。人って死ぬまで、今を生きているわけじゃないですか、確かに死は主観的な世界の終わりではあるけど、そうじゃない。実際には世界は終わっていない。ただもう、自分が"始まり"も"終わり"も見れなく、感じられなく、その輪廻から外れるだけで。だから死は終わりでは無い、喪失だ。私たちは常に何かを喪失しながら、何かを新しく得ながら生きている。私たちは毎日、いや、毎秒死んでいるのかもしれない。"今"の私はもういないから。

画面上に写った卯月コウを見て、2次元の画面の中のその金髪を見て、遠いなと少し思った。さっきまで思っていた。これで今日を終えていいのかと思っていた。

だけど、別にいいんだと今は思った。

もう寝よう。眠い!