生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2023-12/20 本日 嘔吐、スイミー

・水槽、水葬

私は今、バス停でスマートフォンのメモアプリを開き、そこにポチポチとこの文字を入力している。ワインレッドより少し明るいくらい赤のマフラーを巻いて、両肩にはリュックの亡霊のような重量を感じている。私の体を支えている足のひらが、今日も無理をしていた。私は今の空と同じような思いだった。空は白く曇っていて、上の方は、水でふやけたような薄い青をしている。所々、雲間から白黄色の夕日が差している。鮮やかな色彩を欠いて、白い布をかけたようだ。埃を被ったキャンパスにかけられている白布のように。
バスが来た。私はいつも通りバスに乗って、いつも通り後部座席が空いているかを見て、後部座席の真ん中に座った。厳密には、正面から見て右側の席の真ん中に近い辺りに座った。なぜなら、右側の奥にはすでに人がいて、その座っている女性が顔を俯けて足を広げていたからであった。おそらく寝ていた。
だから私は少し距離をとって真ん中に近い位置に座った。
私は今、私が体験している光景とその情緒を書き記したくなっている。だからこんなに細かく書き始めたのだ。
首を少し後ろに傾けると、マフラーが優しく、けれど確かに私の首を押さえつけてくる。私は言葉にできないほど、悲しい思いになっていた。悲しいのではなかった。それすら表現する言葉が見つからない。だから、白布がかけられた今の空のような、首を優しく締め付けるマフラーのような、そして、今膝の上に感じているリュックの重さのようなものだった。バスという長方形の正確な乗り物の中で、隣に座っている人間がスマホをひたすらに見ていて、私がそれを隣でなんとなく感じているような気持ちだった。私だけがスマホを見ないで、流れゆく外の景色も見ず、ただ私の世界(目)で思考をしている、そんな気持ちだった。
正しく秋が来て、通常通りの時期に枯れた向日葵のようだった。
私自身、今の私の気持ちを上手く咀嚼できない。ただ、明日が休みの日なら良かった。それで、今隣に"友達"という人間がいて、私がその人の方を向いたら、その人もこっちを見て、目が合って、どうしたの?って笑ってくれたなら良かった。
けれど、明日は木曜日で学校があるし、今隣に友達なんて当然居ないし、そもそも私に"友達"と言う人間はいなかった。私には世間一般的に呼ばれる友達なら一人はいる。いや、

 

・嘔吐

家に着いた。私は歩いて家という目的地へ帰っている間、色々な思考をしていた。けれどもう、ここにもう一度それらを書く気力はなかった。私はなんのためにこの文章を書いているのだろうか。制服のまま、帰ってきた誰もいない家のソファーに腰掛け、それだけが頭の中にある。根本的には、どうして私は生きているのだろうか。生き続けているのだろうか。どうしてか、別に意味はない。生きているから生きているだけだ。学校に行かなきゃいけないから学校に行って、ご飯を食べないとお腹が空くから食べる。今、全てが無意味なものに思えた。例えば今、誰かが帰ってきて私に話しかけて、家が少しでも賑やかになったら私の心は救われるのだろうか。もしそうなったとしても、それはきっと錯覚に過ぎない。私の心は、私の心のまま、白い布が掛けられたまま、猫背のまま、幽霊のまま、時だけが過ぎて、いつか大人に分類される。
私は逃げているだけだ。こうやって回りくどく言葉を書いて、表現という濾過をして、生のままの、無加工の気持ちから逃げている。
私は弱さが嫌いだ。自分を弱いと認めるのも嫌だ。認めたら馬鹿にされる。消費される。なにから?なにが私を馬鹿にするのか?私だ。なにが私を消費するのか?私だ。私が私のことを馬鹿にして、擦り減らすのだ。どんどん自分が嫌になっていく。今さっき、言った通り家族が帰ってきたから、暗い畳の部屋に逃げ込んだ。そんな自分が嫌になっている。ここは私の家じゃない。もうそんなことも言いたくないのに、どうしようもない8月31日の夕暮れのような気持ちだけが私の中を巣食っている。
この気持ちは誰にも伝わらない。明日の私でさえ。どうして、私は私のことをわかってあげたいのに、私のことが好きなのに、どうして好きになれないのだろう。
矛盾ばかりで自分の認識がはっきりとしない。もうやめよう。こんなものに価値などないのだから。

先日から、サルトルの嘔吐という本を読んでいる。正しく訳すと吐き気の方が近いそうだ。
私はまだ10ページほどしか読んでいない。それでも、すでにこの小説が好きだ。
私の無価値な哲学も、この本のように生まれ変われたのなら、、、。
生まれ変われたのなら?
その言葉の先が、わからない。だから私は生まれ変われない。

私は、私になりたいだけなのに。

 

スイミー

今日、美術部でお別れ会があった。楽しかった。だから私は悲しくなった。ひしひしと距離を感じた。隣にいた。顔を見た。名前を知らなかった人の、名前を知った。この間の展示で、みんなが良いと思った絵を紹介した。それで、どんな人なのかが少しわかった。私は、スイミーの魚の群れだと思っていた。彼らを、彼女らを、先生も、みんなも、魚の群れの、一人だと思っていた。私は久しぶりに一人の人間として、個人として、人間をみた。だから私は遠いな、と思った。いつもは、スイミーという1つの魚だから悲しくなかった。私はスイミーという群れの中に入っていないだけだったから。けれど、それは私が勝手にそうやって、単純化していただけだった。私はそれを普段から知っているにも関わらず、知らないふりをして、距離をとってスイミーという1つの集団だけをみていた。

みんなは、たった一人の、1人ずつの、個人だった。魚だった。みんな、顔も、背丈も、声も、言葉も違った。それでもみんなは、他人同士で話していた。同じ魚じゃないのに、違う種類なのに、仲良くしていた。私にはそれが、悲しかった。私はただ、私は、

私と同じだった。みんなは私と何も違わなかった。私と同じ、一人で、個人で、たった一人の人間だった。

それでも私は、明日もスイミーの群れとしてみんなを見る。スイミーの中の、尾を担当している黒い魚だとか、頭のあたりの魚だとか、それでしか認識しない。

私は、みんなからしたら水と見分けがつかないような、透明な魚なのだろうか。私はそれでいい。そうであってほしい。

私はそのまま、私はこの人達とは違うと線引きしながら、同じ海を一人で漂う。そのままの日々でいい。

この日々が終わる日がいつか来るなら、その時は、海中に届いた月光をみるのだろうか、それとも、海底のざらざらとした砂の感触だけが鈍くわたしのなかに響くのだろうか。

私は、ご飯を食べるし、昼寝もたまにするし、アニメを見るし、悲しい時に泣いたりするし、悔しい時には心の中で怒っているし、嬉しい時には少しだけ口角が上がっているだろうし、それだけはわかってほしい。ほしかった。