生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2024-1/8 赤と青、実存主義

私は、自分の色を、赤と青だと思っている。形は丸くて、表面は青で、その中に赤い球がある。遠くから見れば、たまに私の色は紫に見えることもあるだろう。青が薄くなって、中身の赤の色が増している時は。けれど、大抵の場合は、私は青く、人々からもそう見えているだろう。

泣いている時は、私は大体赤くなっている。青が透明になっていて、赤が前に出ている。むき出しの、赤が見える。

私はみんなに青だと思われている。冷静で、落ち着いていて、静かで、感情がなくて、ブレない青色。私の色に赤もあることをなんとなく感じているのは、お母さんと、弟だけだ。

青と赤だとはっきり認知しているのは、私だけ。

私は実存主義が好きだ。実存は本質に先立つ。私はこの言葉を、本質はあとから付いてくるものだと言い換えて理解している。

私はみんなの色を理解しようと思わない。私は、人の名前や顔を覚えるのは得意では無い。というか、人と接する際にそこに重きを置いていないのだと思う。重要なのは、明確な名前でも容姿でもなく、存在だと思っている。だから私は、人を、〜っぽい感じの人、〜をやっていて、こういう特徴のある人、という感じで認識している。

最初に言ったことは少し違う。私は、みんなの正確な色を理解しようとは思っていない。色の名前や、その細部までを理解しようとは思わない。なぜなら、どれだけ私が理解しようとしたって、私とその人では生きている世界が全くと言っていいほど違うからだ。

それに、私は私以外の人が何色であってもいい。私のあまり好きじゃない色だとしても、別にいい。それに対して何かを思うことはない。私は、私が実存として存在し、私だけがその本質を理解していればいいのだ。

逆に、本質を理解しようとされるのは不快だ。私は私でしかないのだから、ただそこに存在しているのだから、ただそこに存在しているものだと思っていればいいのだ。

お母さんの色は黄緑だろうか、弟の色は、お母さんに似た黄緑かな、それとも緑だろうか。私には分からない。

だけど、私の推しの色はわかる。ピンクみたいな赤だ。強くて、けれど可愛くて、どこか柔らかい色。本人もピンクが好きだし。私の推しも、自分の色をなんとなく分かっているのだろうか、、そんな気がする。

ただ1つの色を持って、今日も好きなゲームをして生きている推しが好きだ。

本当になんでこんなにも好きなのかわからないけど、ずっと好きだし、声を聞くだけで元気になれる。それを思うだけで、心が少し暖かくなった。

推しに出会ってから、好きとか愛してるとか、憧れだとか、言葉にならない気持ちって本当にあるんだなと思った。

これをもし読んでいる人がいたとして、もしかしたら私のことをバカにしているかもしれない。それならそれでいい。私だって、少しそう思っている。

他人を信じることは怖い。それも、私の推しは会ったこともなければ、話したこともない他人だ。どこに住んでいるのかも、本名も知らない。知らないことだらけだ。

だけど、私は、推しの存在を信じた。彼という人間が好きだと思った。それは恋愛感情とかではなくて、ただ、人間として、、。言葉にできない。1人の夜に、一際輝く月を見つけた時のような気持ちだった。冬が終わって、初めて春風が吹いた時のような気持ちだった。朗らかな暖かい休日に、川沿いを歩いて、桜の花びらを眺めるような気持ちだった。

もしかしたら、盲信なのかもしれない。そもそも、信じることは、曖昧で、嘘でもあり、真実でもある。そのどちらでもないとも言える。信じるなんて、祈りと同じようなものだ。願いと同じようなものだ。

私は、初めて願ったのかもしれない。彼という存在と同時に、言い換えれば、この世界の存在を願った。

夢はいつか覚めるのなら、それはきっと私の意識がなくなった時だろう。"私"ではなくなった時だろう。そんな時のことなど、今は考えていたって仕方がない。今日を摘め。

私は今日も花を摘む。その花の価値は、私だけが決める。その花の本質は、私だけが知っている。