生活の日記

文章を書くのが好きな人間が、ただ吐き出しています。楽しいから書いています。

2024-1/24 バス車内にて、今という非可逆性

先程乗っていたバスで嘔吐を読んでいた。バスの中で本を読むというのは、やはり良いものだ。前はよくやっていたのだが、最近はスマホをいじったり、ドット絵を描いたりと、バスの中で本を読むことはあまり無くなっていた。エンジンの音と時折鼻をすする音や、何かに触れるかさかさという音だけが聞こえる。機械的なアナウンスの声にバスの稼働音。無機質で無感情なこの空間で本を読むと、とても良く集中出来る。
今日も色々なことがあった。しかし、それを話そうとは今は思っていない。こうやって何を書こうかと考えている間に、窓の外の景色が流れ行き、到着という終わりへと向かっているのが、私に少し焦りを感じさせている。書くことがないなら、書かなきゃいいじゃないかと思うかもしれないが、私はおそらく、さっきまで嘔吐を読んでいたから、そのような文章を書きたくなったのだろう。それを思い出すと、今日の国語の授業で城の崎にてをやった時のことを思い出す。その話をしたいという気持ちも、実は少しあるのだが、それよりも、私は今、"現在"のことを考えていたいのだ。現在とは簡単なようで、実はとても曖昧な言葉だ。そもそも、時間の概念だって人間が勝手に決めたものなのだから。全く、人間というのは身勝手だ。でも、私は今、このバスの中に居ることを、隣にも前にも人々が居て箱のような空間に全員が閉じこもっていることを、全く不快に思っていない。むしろ、静かな心地良さすら感じている。私も身勝手な人間の一人なのだ。人が嫌いだというくせに、人と居ることを心地良く思う時もある。けれど、今はその事を嫌悪していない。私は、今は、という言葉をとてもよく使うな。今気づいた。その理由としては、私が何よりも今を大切にしているからだろう。書き留めておきたいのは、今のことなのだから。例えすでに起きた過去のことを事を語るとしても、自分がそれを語っているのは今だ。語るということには、もちろん自分の今の感情や視点が反映される。だから、こういう今書いているような随筆の文章において、同じ物事についてまた語ったとしても、前と同じ文章は二度と書けない。例えとしては、会話の方が良いかもしれない。例えば、友人に最近怪我をしたんだ、ということを話したとして、怪我をした直後にそれを話すのと、時間が経った後に話すのでは、内容が少し変わっているだろう。怪我をしたんだ、ということは変わらない。しかし、怪我がどれぐらい痛かっただとか、怪我に対しての感情は刻一刻と変わっていく。
そもそも、会話や文章というのは、自分の思考が元になっているのだから、当たり前だろう。私たちの脳は常に稼働し、様々なことを思考、記憶などをしている。私たちは非可逆的である。時間という概念も同様に。しかし、何故なのだろうか。まぁ、これにはおそらく化学的やら数学的根拠があるのだろうが、私はそういう面で考えたい訳では無い。興味はあるが、今はそのような気分では無いのだ。哲学的、というよりは抽象的に、なぜ時間が戻らないのだろう、と思う。いや、これに関して考えるのはやめた。私はもう興味がなくなってしまった。私は飽き性なのだ。そう、とにかく私が言いたかったのは、非可逆性の美しさだ。私はそれを思うと、全てが美しくさえ思えてくる。私たちはいつか死ぬのだ。この国も、地球さえ。宇宙はどうなのだろう。私が今思っていることも、何もかも、消えてなくなるのだ。今もそれが進んでいる。思考が流れては消え、記憶が少しづつ薄れていく。それはなんと悲しいことであろう。寂しいことだろう。しかし同時に、なんと美しいことなのだろう。私たちは非可逆的だからこそ、生きていける。昨日、今日、明日という区切りがあり、記憶は徐々に掠れていく。
だからこそ私は、今を愛していたいのだ。私の今は、過去でもあり未来でもある。その全てを含んでいる、"今"だ。私は、今という時間に対してそのような解釈をしている。これについて説明する気は、今は無い。いつかはするかもしれないが。私は今からスプラをするからだ。昨日久々にやったら楽しくて脳汁が出た。私はスプラに関しては、何年前だろう、5、6年前からやっている。それだけの自信はある。(とは言っても、私はクラブラと、もみじ専門で、チャージャーに関しては本当に使っていないので下手くそ)
クラブラの腕にはそこそこの自信がある。そこそこだ。そこそこ。